もうひとつの自己紹介
よくここが分かりましたね。より詳しい僕の自己紹介をお教えします。
小学校時代
よく騒ぐ子だったと思う。というか、他人から見て自分がどのような
人間に見えるのか、といったことを意識したことが全くと言っていいほど
なかった。大変旺盛にいたずらをしまくりました。
そのため、先生、級友、及び近所の住民に少なからぬ迷惑をおかけした。
具体的に何をやったかはまだ書ける範疇であるが、やはり私の将来のために
割愛させていただく。
しかしこの頃から提出物は苦手だった。宿題はまずやらないし、夏休みの
工作もまともなものを作った記憶がない^^; 計算が苦手なのもこのころ
怠けたせいだ。
中学校時代
この頃はひどかった。いたずらではすまない悪事もたくさんやってしまった。
またしても、級友、及び近所の住民には多大なご迷惑をおかけしたと思う。
が、しかし、今までの人生で最も楽しく毎日を過ごせた時期でもあった。
当時はだるい〜と思っていたが、今となって思い出せば、毎日学校へ行くのが
楽しくてしょうがなかった。
尾崎豊の歌ではないが、この時期は先生というものが大っ嫌いであった。
何かにつけて協調性を要求し、個を許さない、ウチの母校はそんな校風に感じられた。
そのため先生には反抗しまくっていた。
この時期に形成されたこの性格は今でも残っており、いまだに意味のない規則を嫌う。
勉強面では、理科が好きでたまらなかった。運動は苦手だったが、理科・数学は
得意だった。そのため、将来は物理学者になりたいと思うようになる。
中学卒業〜高校入学まで
実は中学を卒業してすぐにバイトを始めた。
16歳になったら即原付に乗りたかったからだ。
親はバイクに乗ることを許さなかったが、自分は自分、自分で免許を取って
自分で買って乗るんだから文句は言わせないと考えいていた。
まじめな話、自分でお金を稼ぎ、免許を取ってから乗ったのだから、
自分の意思でちゃんと社会的な規則を遵守して車社会に入っていったことは
社会参加という意味においても正しいことだったと思う。
一日10時間くらいのバイトを15日間ほどやり、原付を買うための資金を
この時期にほぼそろえた。
高校時代
小さな頃から理科が好きで、さらに高校受験で数学の楽しさを知り理数科のある
高校に進学する。縛られるのが嫌いな性格であったが、何故か超硬派な運動系の
部活に入ってしまう。もともと身体が弱く、入部当時はみんながすぐにやめると
思っていたらしいが、でしゃばる性格が災いして、結局最後まで続ける。
おかげで人並みの体格になることができた。(少々故障した部位もあるが;^^)
勉強面では、理数系科目以外はまったくといっていいほど勉強しなかった。
ほとんど全ての授業中に数学・物理の内職をしていた。
おかげで文系科目はいつも赤点スレスレ。
このころ自我というものに目覚めたと思われ、高校なんて大学に入るための通り道、
受験に受かるために最小限度の努力だけすればいいと思っていた。
そのため遅刻しまくり、担任に怒られても開き直って立ち向かって行った^^;
高校まで家が遠かったのだが、実はこっそり原付の免許をとって原付通学を
していたのでそれは言い訳にはならないかも。
内職のおかげで、高校数学は高2の秋くらいにすべて勉強し終わっていた。
3年間僕のクラスを受け持ってくださった数学の先生がとてもいい先生で、
退屈そうな僕にε-δ論法なんかを教えて下さり、大学で習う数学はずっと
楽しそうに思えた。
そのため早く大学へ行って自由に勉強したい、と思っていたが、高2の冬にそんなに
勉強したければ今からやればいい、ということに気づき、近所の図書館へ
行って大学の数学・物理を勉強する。特殊相対性理論を読んでアインシュタインの
偉大さに感銘を受けた。
このときは大学に入学したら宇宙物理学を学ぼうと思った。
大学時代
受験勉強も終わり、これで本格的に好きな勉強をできる、と思ったが、高校のときに
予習をしすぎたせいで大学の授業が全く面白くなかった。
ここでふんばって、さらに予習をすればよかったのだが、怠けたがりの性格が災いして
だらけた生活を送ってしまう。
さらに、物理をやりたくて大学に入ったのだが、なんだか計算ばかりだし、実験も
やらなきゃいかんしでいやになり、一方で代数学の面白さに気づき、数学専攻へ進む。
高校時代に激しく部活をしたので、大学時代は自由気ままに過ごしたいと思い、
サークルには入らなかった。おかげで友達があまりできない。
2年次に自動二輪免許(当時は中型免許と言った)をとり、バイクにはまる。
さらに、子供心を思い出させる模型作りにもハマってしまい、1, 2年次は
ほとんど勉強をしなかった。
3年次からは寮を出て、アパート暮らしを始めたことから金銭的に生活がきつくなり、
バイト三昧の毎日だった。
先生の授業が魅力的だったという理由から、卒業予備研究で宮本先生の研究室を選ぶ。
このとき人生で初めて、数学で人から説明を受けて理解できないという体験をし、
プロの数学者の凄さ、己の未熟さを知る。
そのため、数学を勉強するならば宮本先生のもとで、と思い、何も考えずに筑波大の
大学院へ進むことにした。ちなみにこの頃読んでいた本は Gorenstein の Finite
groups という本。後で知ったが、これはかなり読みにくい本らしい。
確かに難しかった。
大学院修士課程時代
修士なんてついこの間のことに思われるが、こうやって履歴を書いてみると
俺の人生においてはまだまだ若い時期なんだなぁ。
本題。院に入ってからは主に頂点作用素代数の勉強をする。
入学してすぐ、宮本先生に Y.C. Zhu の頂点作用素代数の指標の保型性に関する
論文を渡され、メチャメチャ苦労した。
が、当時は逆に何も知らなかったので、少しでも分からないところは徹底的に調べた。
おかげで頂点作用素代数だけでなく、数学一般に関してもいい勉強になった。
M1の夏に初めて京都の数理研に行き、自分の研究室以外の学生と知り合いになる。
このとき自分もがんばらねば、と一念発起し、集会後一ヶ月弱で Zhu の論文を
強引に読み終える。
勉強以外では、学部4年の後半から始めた塾の講師のバイトがかなり忙しかった。
おかげで勉強がおざなりになることもしばしばあった。
また、学部時代の同期もほとんど院に進学しており、しょっちゅう遊びに行っていた。
今日は勉強したかったのに、と本音を漏らしても信じてもらえず(これ、ホントだぜ)、
また自分でもきっぱり断ることができなかった。
しかし、数少ない俺の友達の中でも博士課程まで進むのはわずかだったので、
せっかくだからとバンドを結成して、学祭でライブをやることにした。
俺は簡単そうだから、という理由でベースを選ぶ。中学時代に少しかじったことが
あったが、やはり一曲しっかり弾けるようになるというのはメチャメチャ大変だった。
M2の夏になっても修論のネタが見つからず、テンパって塾のバイトを辞めさせて
もらう。
その後、9月のとある日にシャワーを浴びていたら修論のネタを思いつき、うれしくて
ボスのもとへ飛んでいく。そして、ゴーサインを頂く。
秋は学祭、研究集会と忙しかったが、それらを無事済まして修論に取り組む。
当初、単に人の結果を組み合わせていけば結果が出ると思っていたが、一般化する
部分については猿真似ではうまくいかず、それまでの研究人生で一番苦労する。
一時は投げてしまったが(そのため、実は修士論文の最後は予想で終わっている)、
しばらく考えたらうまく解くことができた。
このとき、一ヶ月、二ヶ月かけて問題を解く、という苦労の中で勉強ではなく、
研究とはどんなものかということを学ぶ。
ちなみにずっと解けなかった問題は半単純環論の問題。
おかげで半単純環は得意になった。
大学院博士課程時代
これはつい最近のことなのでよく覚えている。っていうか、だんだん回顧録に
なりつつある気が。本題!D1になって、セミナーが結果が出たら話す形式になり、
回数が激減する。そのため、お金を節約するために、D1の夏に実家に戻り、実家から通う
ことにした。おかげで大学に行くのがかなり億劫になった。
D1の間は院生生活の中で最も苦労した時期だと思う。もちろん、勉強は色々とよく
やったが、それが研究に結びつかず、宮本先生がよくおっしゃっていた
ネタ探しの難しさを骨の髄まで理解した。
自分の結果というものが欲しくて欲しくてたまらない時期であった。
しかし後になって思えば、この時期に教科書ではなく、たくさんの論文を読んだことが
後の研究する力になったと思う。教科書では理論のアイデアや方針等がきちんと
噛み砕いて解説してあるが、最先端の理論を研究するにあたってはそれを自分自身で
行わなければならない。この論文の本質は何か、ということを自問自答し、
突き詰める訓練がこの時期になされたと思う。
この時期は H. Li の頂点作用素代数の単純カレントを用いた拡大の論文が
とても面白く、徹底的に読んでいた。
D1の冬に Lam さんがつくばに一週間ほど来て、ヴィラソロ頂点作用素代数の拡大に
関する話をしてくれた。これがそれまで僕が勉強していた話とうまく噛み合い、
宮本先生の助言もあって、共同研究に参加させて頂けることになった。
こうして振り返ってみると、僕は人生においてキーとなる出会いに恵まれていると
思う。
高校時代の先生のおかげでより数学が好きになり、宮本先生に出会えたおかげで
頂点作用素代数、そして数学者としての姿勢を学べた。そして良き研究パートナーとなる
Lam さんに出会い、共同研究の機会を頂いた。
もちろん、二つの人生を送れるわけではないので、勝手な想像であるが。
D2になって、Lam さんとの共同研究で得た経験や、Li の論文で得た感覚がようやく
実を結び、一気に論文を3本書き上げる。博士課程の中で最も調子が良いときだった。
自分はできる、と調子をこいていた時期でもあったが、学振であえなく落選、己の
未熟さをまた知ることになる。
学振に落ちてまだすこし憂鬱だったD2の冬、京都で Lam さんが McKay observation の
話を講演し、共同研究で進めることになる。
これはウチのボスも認めてくれる、とてもいい研究題材で、それまで書いた論文が
関連しており、また Lam さんとも少しやり取りをしたおかげで共同研究をできる
ことになった。
やはり僕は研究人生における出会いという意味でついていると思う。
D2の冬から春にかけてはひたすら E_8 diagram に関連する計算をやっていた。
ずーっと単調な計算で最後の方はかなりいやだったが、いったんデータが集まって
しまえばあとは理論的な考察なのでそこからは楽しく研究することができた。
D3 の間もひたすら McKay observation に関する研究をしていた。
この年に学振に受からないと後がない、ということで相当気合を入れて
応募書類を書いた。また、この時期から公募に応募するようになり、書類の書き方を
色々学ぶ。
D3の7月に、今年が学生生活最後だから、という強引な言い訳を作って学部・修士時代の
友達とタイに遊びに行く。博士課程に上がってから、唯一の大きな遊びではないか。
10月、今までの苦労が実り見事学振PD採用が内定する。
今までお金を払って数学をやってきたが、来年度からはお金をもらって研究できることが
うれしくてうれしくてうかれまくっていた。
博士論文を執筆中、新しい結果を得て、D3になって一本論文を書くことができた。
実はこれ、D1のときに解けなかった問題の拡張になっているのだ。
また、博士課程修了間際の3月にやっと McKay observation に関する一本目を
投稿する。およそ一年と3ヶ月かかった力作だが、その評価やいかに??
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